【取材記事】東北大学 名誉教授 髙坂知節先生

今回は、東北大学 名誉教授 髙坂知節(たかさか とものり)先生にお話しをお聞きしました。

河北診療所 耳鼻咽喉科 院長

東北大学 名誉教授・仙台逓信病院 名誉院長・東北文化学園大学 名誉学長

令和5年(2023)11月 河北診療所 耳鼻咽喉科 院内にて撮影

【質問】医師を目指されたきっかけを教えて頂けませんでしょうか?

はい、私が医師を目指したきっかけは、『父に万が一あった際、父と同じ医師を継ぎ「家族を守り、支えよう」と強く思ったから』です。

その理由は、私の生い立ちにあると思います。

もう一つ、我が家の家系をたどると「医業」に繋がっており、先祖の大きな力に導かれたのだと感じています。

医師を目指したきっかけとなる、私の生い立ちや両親、家系のお話をします。

旧満州国 奉天(ほうてん)時代

私は1936年(昭和11年)中国東北部瀋陽(旧満州国秦天:ほうてん)で生まれました。

5人兄弟の長男です。兄弟の私を含め4人は満州で生まれ育ちました。

父 髙坂知甫(ともすけ)は山形県庄内生まれです。幼いころ両親に先立たれました。

その後、九州大牟田の親戚の家で育てられました。

三池中学校卒業、満州医科大学予科入学、医師を志して満州へ渡りました。

医師になるための夢を叶えようとする父の大きな決断だったと思います。

満州医科大学卒業後、松井太郎教授の耳鼻咽喉科学教室に入局。

その間、7歳年上の兄知武(ともたけ)(台湾帝国大学農学部教官)に物心両面で支えられたと父はいつも話していました。

父も兄という家族の支えがあり、夢に向えたと思います。

1935年に母「静」(しず)と満州奉天で結婚しました。

母は神戸出身でしたが、京都で教師をしていた父の従姉の教え子だったので、その従姉から父を紹介されたようです。

父知甫、母静は昭和10年(1935)3月28日に奉天神社で挙式した。


昭和11年(1936)6月、父、母と生後1ヶ月の記念撮影


昭和18年(1943)4月 満州国新京の白菊国民学校に入学


1941年頃 父は満州鉄道病院の勤務医を経て、満州の首都新京にて耳鼻咽喉科診療所を開業しました。

その頃には、長男の私「知節(とものり)」をはじめ、次男「知儀」三男「知勝」長女「清美」と家族が増えて父の夢が叶いました。

幼くして両親と別れた父にとって幸せな日々であったと思います。

私たち家族も幸せでした。

満州からの生還 引き揚げ

しかし、戦争の悲劇が我が家にも襲い掛かってきます。

1945年8月6日広島に原子爆弾投下。

1945年8月8日「日ソ中立条約」破棄。

1945年8月9日ソ連は満州、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島侵攻開始。

私たち家族も含め多くの日本人が戦火を逃れる事態となりました。

満州国首都新京から朝鮮半島平壌まで逃れました。

陸軍病院の貨物列車は、公主嶺を発ち、一路南へ南へと走り、昭和20年(1945)8月15日の玉音放送も知らずに平壌駅構内へと向かった。

そのころ米軍が朝鮮半島北上との情報があり、平壌に留まることとなりました。

敗戦後、平壌において私たち家族は「難民収容所」での生活となりました。

父は捕虜として連れ去られました。

幸せな生活は、一転しました。今でも怖い体験でした。

1946年8月のある暑い日、私たち家族は、難を逃れるべく平壌から開城(けそん)へ向け出発しました。

十数人の若者たちと一緒でした。

160㎞に及ぶものでした。

母の静32歳、知節10歳、知儀8歳、知勝5歳、清美3歳。

母 静の「子供達を守る」という決死の覚悟と決断だったのだと思います。

一行は、国境付近、いわゆる「38度線」の手前で待機を余儀なくされました。

チャンスを見て、38度線を越えました。

米軍キャンプに収容された後に無事釜山まで到着しました。

引き揚げ船にて博多、そして母の実家神戸へたどり着きました。

神戸での新生活

神戸も米軍による焼夷弾で一面焼け野原でした。

焦土と化した神戸市街地

1947年 母実家にて記念撮影の写真が残されています。

実家の庭にて記念撮影(1947)

戦後、平和の続いた日本では想像出来ない体験です。

私たちが神戸の実家に身を寄せ、その1年後 奇跡的に父が帰還しました。

父が戻り大変嬉しかったことを覚えています。

あの戦火を掻い潜って、再び家族が一緒に過ごすことが出来たのです。

とても幸運なことでした。

私たち家族は何かに守られているような気がしていました。

一方、終戦後の食糧事情は厳しいものでした。

写真にあるように大所帯で過ごすことは大変でした。

父の故郷 山形での新生活

父の「髙坂家」は、庄内藩の御殿医を務めた家系です。

「髙坂家」の菩提寺は、鶴岡市金峰山の麓にある「金澤山 洞春院」(山形県鶴岡市高坂字杉ケ沢84)です。

直ぐ近くに「藤沢周平生誕の地」(山形県鶴岡市高坂100)があります。

明治維新後、第11代庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)に藩医の任を解かれ、大日本帝国陸軍の軍人となりました。

私の曽祖父知次(ともつぐ)は、日本帝国陸軍近衛歩兵聯隊中尉としての道を歩み西南の役で戦死しました。

話は戻ります。

父は、敗戦後の日本各地の視察に出かけました。

もう一つの目的として、家族との生活の地、耳鼻咽喉科開業の地を求めたのだと思います。

髙坂家祖先の縁、満州医科大学の先輩のご縁もあり、鶴岡ではなくて山形を選びました。

父の夢、新天地山形での診療所開業までは苦難が続きました。

1952年(昭和27年)父は、山形市小橋町に耳鼻咽喉科の診療所を開業しました。

[山形城 三の丸の堀の北にある六十里越街道の両側町]

診療所の入口にて、開業当時の3名の准看護師

様々なご縁と祖先の導きによるものだと感じています。

「家族を守り 家族を支える」決意!

私は、山形師範学校男子部附属小・中学校、県立山形東高等学校へ通いました。

1956年(昭和31年)に東北大学医学部へと進みます。

戦争で父がいない生活を経験しました。

「もし、また何かあったら父の診療所を継ぎ家族を守り、家族を支えよう」と強く思うようになりました。

私が医師を目指したきっかけです。

現在、私は87歳です(2023年11月インタビュー時)

人生を振り返ってみる年齢になりました。

このように人生を振り返って話していても、これまで誰かに守られ、何かに導かれて来たのだと感じています。

医師を目指し、医師になったことも、そうだと感じています。

 

医学部時代の事をお聞かせ頂けませんか?

東北大学 医学部時代

はい、私の医学部時代のことを紹介します。

当時、東北大学医学部は85名でした。

私は、入学と同時に東北大学交響楽団に入りました。「チェロ」を選びました。

私の学生生活は、学業とともに音楽に明け暮れる日々でした。

この音楽は、60年以上に渡って私に「生きがい」を与えてくれました。

さて話は医学部に戻ります。

1962年卒業後、インターン生として日立総合病院(茨城県日立市)へ行きました。

日立総合病院は、東京大学関連の病院です。

おのずと、東京大学の先生が各科部長クラスの要職に就かれていました。

またインターン生も首都圏中心です。大いに刺激を受けました。

特に、毎週開催される内科カンファレンスでは、多種多彩な症例が提示されました。

様々な討論の末に結論が導き出されていました。

このカンファレンスのお陰で医師の国家試験を比較的楽にクリア出来ました。

現在のようにCTやMRIがない時代です。

患者さんへの「問診」「触診」「聴・打診」で診断を行います。

診断医の実力が試されます。

そして多様な議論が行われます。

多いに力量を上げる仕組みだと思います。

1963年インターン生を終えて仙台に戻り東北大学の診療科に入局することにしました。

様々な経緯があって、インターン時代に魅力を感じていた内科ではなくて、父と同じ耳鼻咽喉科を選びました。

そこには、父の診療所を何時でも継ぐことが出来るという気持ちもありました。

米国留学 ワシントン大学 キャサリン・スミス先生との出会い

よって、入局時には大学院を選択せず、6年後に学位論文を提出することが出来る普通(臨床)コースを選びました。

なぜか普通コースであるにも関わらず、片桐主一先生(主任教授)から私に留学の機会が与えられました。

これも何かに導かれたのだと思います。

1967年米国セントルイスのワシントン大学へ留学し、キャサリン・スミス先生と出会いました。

キャサリン・スミス先生は、世界的な電子顕微鏡研究者です。

そして素晴らしい指導者です。

キャサリン・スミス先生の指導によって

「学問を究める」

「新しいものを発見して世界へと発信する」

「研究を通じて社会へ貢献する」

ということが私の中で昇華したと思います。

私は「鳩の内耳」の研究を行いました。

鳩の耳の形はシンプルです。

モノトーンに見える細胞の聴覚機能に違いがあるかどうかを探りました。

私たち人間の哺乳類の内耳は、機能分化しており、複雑です。

鳥類は、小さくシンプル=原始的形状と思われてきました。

複雑な形状のほうが機能的に優れていると思われていました。

しかし、電子顕微鏡下の観察やキャサリン・スミス先生の素晴らしい指導によって、私は鳩の耳がシンプルでも高機能であることを発見しました。

面白くて面白くて研究に没頭しました。

100万ボルトの電子顕微鏡

帰国後も東北大学片平キャンパスに100万ボルト電子顕微鏡があり研究に没頭しました。

100万ボルト電子顕微鏡は、現在の東北大学先端電子顕微鏡センターへ受け継がれました。

医学部のある大学で「100万ボルト電子顕微鏡」は限られていました。

10万ボルトの電子顕微鏡が普通です。

10万ボルト電子顕微鏡研究は検体を「薄く」しないと見ることが出来ません。

しかし、100万ボルト電子顕微鏡になると検体が厚くても解像することが出来ます。

私は面白くなり、研究に没頭しました。

アメリカ留学も含め本当に楽しかったです。

100万ボルト電子顕微鏡研究は、革新的研究成果へ直結します。

「内耳」研究成果について学会での特別講演も行わせて頂きました。

このような経緯から自然に、大学教授への道につながったのだと思います。

また、自分自身の留学経験等が教授になって真っ先に改革した「入局後のコース選択」へと繋がります。

旧医学部本館(現在の医学部1号館が建ち、残念ながら昭和49年に解体された)。


昭和35(1960)年当時の北四番丁からみた星陵キャンバス医学部基礎棟群

 


教授を目指されたきっかけを教えて頂けませんでしょうか?

優れた教育者を育成する教育システムを構築

はい、私が教授を目指したきっかけは、米国ワシントン大学留学とキャサリン・スミス先生との出会いです。

加えて、帰国後の100万ボルト電子顕微鏡による研究成果です。

大学は、優れた医師を育成する教育者を育てなければいけないと考えました。

もちろん、臨床を修練し開業する医師、手術手技を積みかさねる外科医も必要ですが、それらの医師を育成する卓越した教育者が必要です。

医療全体の広がりや発展に貢献します。

研究を選ぶこと=大学院コースは、入学金や授業料も含め経済的にも負担が大きいです。

開業し成功された人と研究を選んだ人では年収が大きく違います。

だからこそ、世界的な研究をする、世の中の発展に貢献するというモチベーションが必要になってきます。

「学問を究めたい」「新しいものを発見して世界へと発信したい」「社会へ貢献したい」という動機はとても大切なことです。

私は、東北大学医学部、日立総合病院インターン、アメリカワシントン大学留学、帰国後の100万ボルト電子顕微鏡研究を通じて、「優れた教育者を育成する教育システムを構築しなければいけない」と強く思うようになりました。

私の意思「=父の耳鼻咽喉科の診療所を継ぐ」とは別に、内耳の基礎研究を通して何か大きな力に導かれたのだと思います。

髙坂先生の指導方針、学生への接し方を教えて頂けませんでしょうか?

文部科学省の大学重点化政策を先取りした3コース選択

私は1985年から2000年まで東北大学耳鼻咽喉科学教室を主宰しました。

教授になって真っ先に実施したことは、入局して来る新人達に3つのコースを準備しました。

臨床専門医コース(朝から臨床研修に専念する)

臨床+研究コース(臨床研修の合間に研究を行い、6年後に学位論文を提出する)

大学院コース(朝から研究に専念し、4年後に学位論文を提出する)

です。

文部科学省の大学重点化政策が打ち出される前から、私は入局者へ大学院を含めて三つのコースを提示しました。

とはいうものの新人達が研究に専念する「大学院コース」に来てくれるか心配でした。

ところが、私の杞憂をよそに最初の年に2人も「大学院コース」を選んでくれました。嬉しかったです。

医学部の教授が11名輩出

そして私が東北大学耳鼻咽喉科学教室を主宰した15年間で、この「大学院コース」を23名が修了しました。

耳鼻咽喉科学教室への入局者は15年間で76名でしたが、その中から医学部の教授が11名も育ちました。

東北大学耳鼻咽喉科教授としての使命を果たしたと思い、ホッとしています。

私は、医師になる夢を叶えた上に教授になる夢を叶えて、とうとう次世代の教授・教育者を育成するという夢を叶えました。

本当に幸せ者です。

旧帝大の一つ東北大学は優れた人材の育成が求められている大学だと考えています。

医療の世界でも「いい人材が跡を継ぎ優れた人を育成することが大切である」と思い行動してきました。

こうして念願の夢が実現したことを改めて振り返ってみても、自分の意思を超えた、何か大きな力に導かれてきたと思います。

感謝の念で一杯です。

髙坂先生は社会貢献活動にもご熱心です。髙坂先生が活動してきた社会貢献について、教えて頂けませんでしょうか?

東北大学医学部耳鼻咽喉科教室主宰による人材育成

一つ目は、これまでにも話してきましたように、東北大学医学部耳鼻咽喉科教室主宰による人材育成です。

大きく医学教育そのものが社会貢献だと思っています。

その中で大学医学部は、「優れた医師を育成する教育者を育てる」という意味で社会貢献の「源」の存在ではないでしょうか。

東北大学医学部耳鼻咽喉科教室在任中の弟子から医学部の教授を11名も世に送り出したことは、大変嬉しい事です。

河北診療所補聴器センターの存在

二つ目は診療所に併設した河北診療所補聴器センターの存在です。

私が専門とする領域では、四つの感覚器(味覚、嗅覚、聴覚、平衡覚)を取り扱います。

高齢になってもQOLを維持し快適に人生を過ごして頂く為に、東北大学在職中から新しい補聴器開発の研究を行ってきました。

河北診療所耳鼻咽喉科開設の経緯は、「河北診療所耳鼻咽喉科の歩み」※に記載していますように、開発した「デジタル補聴器の臨床応用」が主眼でした。※↓下記参照してください。

河北診療所耳鼻咽喉科の歩み

 

1945(昭和20)年10月 河北診療所耳鼻咽喉科開設。 仙台空襲で仙台市中央部の医療機関が全滅した状況をみて、一力次郎社長が、河北新報社屋内に医療施設を提供する事を申し出て、外科、耳鼻咽喉科、歯科などの診療が始まり、被災した仙台市民が大いに助かった。 院長 小山卓郎(大正12年東北帝国大学医学部耳鼻咽喉科学教室入局、主任教授 和田徳次郎)

1953(同28)年  院長 梁田 昶(昭和5年東北帝国大学医学部耳鼻咽喉科学教室入局、主任教授 和田徳次郎)

1994(平成6)年3月  梁田 昶先生高齢の為退職、東北大学医学部耳鼻咽喉科学教室教授 髙

坂知節)へ後任を依頼した。

髙坂知節教授が当時研究テーマとしていた新しい補聴器の開発研究とその臨床応用の場として、河北診療所耳鼻咽喉科に聴覚センターを併設することとし、院長と聴覚センター長を河本和友名誉教授に委嘱した。

 


 

1994年4月~1995年3月 内装改修工事の為休業


 

1995(平成7)年4月   河北診療所耳鼻咽喉科(院長 河本和友)および河北聴覚センター(センター長 河本和友)診療開始(月水金の後)、聴覚センターでは、東北大学耳鼻咽喉科学教室と東北大学電気通信研究所曽根研究室の研究者が本邦初のデジタル補聴器(クレイダ)の開発及び臨床応用に関する研究を行った。

2000(平成12)年4月  髙坂知節教授が東北大学を停年退官し仙台逓信病院長に就任したので、聴覚センターを改組して河北診療所内補聴器センターと改名し、オーティコン、シーメンス、フォナック、ワイデックスなどの海外メーカーの補聴器を取り扱うことになった。

2008(平成20)年2月  補聴器センターに言語聴覚士の本田泰大が着任し、海外5社のデジタル補聴器の特徴を取り入れたフィッティング業務に当たる。海外メーカーの機器は飛躍的に機能が進歩し、言語聴覚士によるフィッティング技術の向上も相俟って、補聴器の装用が難聴者のニーズにマッチするようになった。

2011(平成23)年1月  開設者が河本和友から髙坂知節に、同年4月院長が髙坂知節となった。

2023(令和5)年10月現在 医師2名(火水・髙坂知節、木金・入間田美保子)、言語聴覚士3名、事務員2名で診療および補聴器のフィッティング業務を行っている。

1985年当時から私の研究テーマの一つに「新しいデジタル補聴器開発」がありました。

その当時から高齢化社会を想定して、「高齢者のQOL低下を如何に救済するか」をテーマにしていました。

特に、「高齢になった場合の耳の変化、聞こえの劣化」がメインテーマです。

耳はデリケートな感覚器で年齢と共に機能劣化をきたします。

「年をとると耳が遠くなる」これは、「加齢性難聴」あるいは「老人性難聴」といわれるものです。

私が教授になる以前はよく「補聴器をつけても役に立たない」と言われていました。

それは「アナログ補聴器」を高齢者の難聴に応用していたからです。

「アナログ型」では、単に音を増幅するだけで、言葉を明瞭にすることは難しいのです。

現在でも格安の値段で出している「アナログ補聴器」がありますので、十分お気をつけください。

「デジタル補聴器」は、騒音の中でもリアルタイムに言葉の明瞭度を上げることができますので「話しが明瞭に聞こえる」ようになります。

「デジタル補聴器」は、高齢者の耳の劣化状態に合わせて、コンピュータ処理をします。

分かりやすく言うと、Aさんは、高音の一部の周波数が聞き取りづらい=限局的な細胞の老化。

Bさんは高音領域全体の周波数と低音の一部の周波数が聞き取りづらい=広範囲な細胞の老化。

100人いれば100人とも耳の中の音を受け取る細胞の加齢による劣化状態=細胞の減少状態が異なります。

100通りのフィッティング処理が必要になります。

目に見える「顔の皺」「頭髪(白髪や脱毛の状態)」は100人いれば100通りです。耳の感覚細胞も同じです。

「デジタル補聴器」は、コンピュータ処理によってきめ細かな音処理が可能となり、言葉が明瞭に聞こえるようにフィッティングすることが出来ます。

注記)木村質問「髙坂先生 デジタル補聴器のフィッティングとは「明瞭度を上げる音処理」ととらえていいでしょうか?」 髙坂先生「良いですよ!」

耳の状態は絶えず変化します。

細胞はリアルタイムで老化していきます。

こまめなフィッティングが必要になってきます。

河北診療所耳鼻咽喉科の特徴は、耳鼻咽喉科医による適切な診断=内耳感覚細胞の老化状態を正確に把握すること、と言語聴覚士(本田泰大さん)の優れたフィッティング技能により聴覚を正確に補正する技術の高さです。

「デジタル補聴器」は、デリケートな器機です。

特に湿気や汚染に脆弱ですので、補聴器用の乾燥機で乾燥させて定期的にクリーニングすることが大切です。

令和5年(2023)11月 河北診療所 耳鼻咽喉科 院内にて撮影

令和5年(2023)11月 河北診療所 耳鼻咽喉科 院内にて撮影

 

音楽を通しての貢献

私の社会貢献の三つ目が音楽による貢献です。

音楽による貢献は更に三つあります。

音楽による貢献の一つ目は「3.11祈りのコンサート」です。

2011年3月11日東日本大震災を機に企画しました。

被災した多くの方に寄り添い犠牲になったひとびとを追悼するレクイエムの演奏を2014年から10年間続けました。

音楽による貢献の二つ目が育った山形への恩返しです。

2015年から山形の実家においてホームコンサート形式のピアノトリオコンサートを開催しました。

医学部同期で音楽仲間の吉田稔男君から譲り受けたスタインウェイ・グランドピアノによるピアノトリオです。

私のチェロ、ヤンネ舘野氏のヴァイオリンと高橋麻子氏のピアノで毎年1回、5年間にわたって演奏しました。

それまで、山形市では室内楽コンサート等の機会が少なかったようです。

プロも含めた演奏のインパクトは大きかったと思います。

私の実家のホームコンサートに加えて、2017年から始めた優れた演奏家を県外から招いて行う室内楽コンサート「文翔館室内楽シリーズ」を年3回5年間行いました。

これらをきっかけに、山形では室内楽コンサートが活発になったと聞いています。

最後になりますが、吉田稔男君から譲り受けた実家のスタインウェイ・グランドピアノは、2020年現在ホテルメトロポリタン仙台へ寄贈しました。

仙台ロータリークラブの例会が行われている会場で素晴らしい音を奏でているピアノ演奏を聴いて大変嬉しく思います。

実を言いますと「音楽」を通じた社会貢献活動の中から、ご褒美を頂きました。

妻「律子」との出会いです。

東北大学医学部入学と同時に交響楽団に入りチェロを弾き始めたことを話しましたね。

永年チェロと過ごした経緯からNPO国際チェロアンサンブル協会の理事長を委嘱されました。

2018年にNPO国際チェロアンサンブル協会が、北海道命名150周年を記念して札幌キタラホールでコンサートを開くこととなりました。

「150人のチェロコンサート」です。

コンサートの開催に当たり札幌交響楽団ファンクラブ「札響くらぶ」にコンサートのご案内やチケット販売等で大変お世話になりました。

それがご縁となって、ボランティア活動をしていた律子さん(当時)と出逢うこととなりました。

二人ともパートナーに先立たれた境遇にありました。

この出会いも「音楽」「チェロ」に導かれたと感じています。

「音楽」を愛し「チェロ」を弾き続けていたためのご褒美と思います。

2019年私の先妻七回忌を終えた秋、1年余りのEメール交際を経て律子実家の仏壇前で生涯を共にすることを誓いました。

(インタビューの4時間 髙坂先生の近くで寄り添いながらお話を聞いていた姿が印象的でした)

写真は2023年1月 ご一緒に東北鎮護・陸奥国一之宮 志波彦神社・鹽竈神社へ参拝後の懇親会の写真です。

とても気に入っているとのことでした。

撮影:木村淳 場所:鹽竈神社 表参道前 一森寿司様

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